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慰霊碑

 投稿者:ロッコの親爺  投稿日:2015年 8月15日(土)16時15分10秒
返信・引用
  酒匂求馬平景様が建立された?慰霊碑の写真です  
 

写真:酒匂求馬平景命が建てた碑

 投稿者:かもひろ  投稿日:2015年 6月11日(木)10時09分49秒
返信・引用
   写真をうまく添付できなかったようですので、碑文を文章でご紹介いたします。

「酒匂源左衛門平景房九代孫
  日州佐土原
   酒匂求馬平景命」

と彫られています。
大人の身長より少し低いくらいの碑です。
 裏面か側面に建立の日付が有ったのですが、手もとのカメラには写っていませんでした。
またいつか現地へ行き、再確認します。
 尚、「酒匂」は「酒勾」と彫られていました。

 個人的には、佐土原、志布志、蒲生、鹿児島市などに居住する酒匂家で
「並び矢(並び矢に丸)」の家紋を持つ人々には
源左衛門、又は新次郎の子孫、又はその関係者が
多いのではないかと推測しております。
 お手許に家系図の有る方、ご確認いただけますなら幸いです。

 かもひろ
 

宮崎・佐土原の酒匂求馬景命のご子孫へ

 投稿者:かもひろ  投稿日:2015年 6月10日(水)21時44分47秒
返信・引用
   酒匂源左衛門、及び弟新次郎は
永禄4年(1561)7月12日、
島津右馬頭忠将(うまのかみただまさ)に従って闘い、
鹿児島県(旧)姶良郡福山町廻(めぐり)竹原山の
戦いにおいて戦死しました。
 島津右馬頭忠将は、「いろは歌」で有名な島津忠良日新斎
(旧加世田市の竹田神社に祀られています)の次男で、
島津第15代貴久のすぐ下の弟です。
 主従50数名が戦死したこの地には、最初天正3年(1575)に
供養塔(墓地とも)が建てられましたが、
延宝2年(1674)10月の暴風雨の為、毀損し、
数年後に右馬頭忠将から数えて7代孫の島津美作久治
が再建しました。(佐土原藩初代以久からは6代孫)
 この供養塔の同じ敷地の中に、
写真でお示しした佐土原の酒匂求馬景命が建てた慰霊碑も有ります。
写真でお分かりの通り、
求馬景命は酒匂源左衛門から数えて9代目だと彫られています。
酒匂求馬景命は佐土原在住で、明治年間の人です。
多分、「求馬(もとめ)さん」又は「きゅうまさん」と
一般には呼ばれていたのではないかと想像します。
戸籍簿には酒匂景命と記録されているかもしれません。
 ご子孫がおいでなら、現在の方は酒匂求馬景命さんから
数えて4代目か5代目ではないでしょうか。
(ひ孫か、その下くらい)
 ご子孫の方、どうか、差し障りの無い程度に、
名乗りを上げて戴けませんでしょうか。
 私どもは、永禄4年戦死した兄弟の弟・新次郎の子孫です。
私どもは新次郎から14代目(14世代目)に当たります。
鹿児島県(旧)姶良郡蒲生町に移り住み、
現在を迎えております。
 或る者は現在の鹿児島市へ行き、
また或る者は宮崎県の佐土原へ定住したようです。
 志布志の酒匂さんの論文によれば、志布志の酒匂家もこの頃
志布志へ移住したとのことです。

 佐土原の酒匂さん、
志布志の酒匂さん、
どうか名乗り出ては戴けませんでしょうか。

〇写真の慰霊塔は、旧福山町の宮之浦神社前の丁字路から
車で10分程急坂を上がって、公園の駐車場に車を停め
(鹿児島湾が一望できる景勝の地です)、
旧・日州街道を10分ほど登った所に有ります。
今年5月26日妻とこの地を訪れました。

〇島津忠将の墓地は、現在、(旧)国分市
清水(きよみず)のお寺に有るそうです。 以上。
 かもひろ
 
 

かもひろ様

 投稿者:兒島  投稿日:2015年 3月15日(日)19時16分3秒
返信・引用
  ご返信ありがとうございます。 私も今度鹿児島に帰省した際に祖母の除籍簿で先祖をたどってみたいと思います。蒲生の住所も解るかと思います。
 祖母の従兄弟になると思いますが、県の教育委員会に勤めていた景虎さんて方がいます。また祖母の弟は、教員をしていて秀雄(秀夫)最後は旧鹿児島商工で物理の講師をやっていました。
 かもひろ様とはどこかで繋がっているのでしょうね。
 話は、違いますがよく行く居酒屋で同じ鹿児島の方と飲んでいたらその方の奥様も酒匂姓で鹿屋出身の方でした。こういうのも先祖の導きではないかと思っています。
 

(再び)兒嶋さまへ

 投稿者:かもひろ  投稿日:2015年 2月21日(土)00時19分22秒
返信・引用
  兒嶋様、

 度々申し訳ありません。
2月9日の兒嶋さんの記事を
念入りに読ませて戴きました。

 先ほど投稿した私からの質問は
大方不要のようですね。失礼いたしました。

 兒嶋さんの曽祖父の代(明治)に
蒲生から移住(転居)なさったのですね。

 きちんと読まずに投稿したこと、
お詫びいたします。
かもひろ
 

兒嶋様へ

 投稿者:かもひろ  投稿日:2015年 2月21日(土)00時10分31秒
返信・引用
  兒嶋様へ、

(1)おばあ様は、現在何歳くらいか、
(又は何年頃のお生まれか)、
差し障りのない範囲でお教えください。
私にできる範囲で調べてみます。
何か分かりましたら、ご報告いたします。
あてにしないで(?)お待ちください。

 おっしゃる通り、一族に、数百年前、
又は最近の百年くらいの間でも
お名前に「景」の付いている人は多数います。
現在でも生まれた赤ちゃんのお名前の一字に「景」の字を
付ける人もいます。

(2)先日も申し上げましたように、
拙宅の家紋も「並び矢(並び矢に丸)」です。
 このように「並び矢(並び矢に丸)」という表記をしたのは、
私どもは「並び矢」とずっと聞かされ、
そのように呼んでいたのですが、
全く同じものを「並び矢に丸」と呼んでいる方が
いらっしゃることに気が付いたからです。
 家紋学の上では区別が有るのでしょうが、
少なくと旧姶良郡蒲生町では
同一のものをこのように若干異なった名称で呼んでいます。
 「並び矢」の呼び方はともかく、
蒲生で同一の家紋ですから、兒嶋さんのおばあ様のご実家と
拙宅の家紋は同一のものに間違いないと思います。

 本日は以上です。

 

かもひろさま

 投稿者:兒島  投稿日:2015年 2月20日(金)22時13分18秒
返信・引用
  かもひろ様
家紋については、並び矢です。(丸があるかはわかりません。)金峰町の田布施になります。
叔母が一時期、蒲生に仕事で住んでいたことがあり、その際、蒲生に酒匂家があるため母(祖母)に尋ねたところ、元々蒲生の出であると聞いたそうです。なお、代々、景を名前に使用していたとのことです。
 

兒嶋様、及び札幌の酒匂様

 投稿者:かもひろ  投稿日:2015年 2月16日(月)22時28分31秒
返信・引用
  兒嶋様、並びに札幌の酒匂様、

(1)兒嶋様、
 ご連絡、有難うございました。
蒲生から金峰町へ行った方がいらっしゃるかどうか
尋ねられる方々へ尋ねてみます。
 金峰町というのは、吹上浜の近くの
昔の阿多と田布施ですね。

(2)札幌の酒匂様、
 (ア)私の出身は鹿児島県姶良(あいら)郡蒲生(かもう)町です。
数年前3つの町が合併して、今は姶良市になっています。
この蒲生町に数軒、「左三つ巴」の酒匂家があります。
多分、お尋ねになった家紋と同じではないかと思います。

 なお、蒲生町の酒匂家には3種類の家紋が有ります。
この3つの酒匂家の各グループが
互いにどのような関係にあるのか、私には分かりません。
 男系として考えるなら、少なくとも
最近の400年前後は互いに関係は無いのではないか、
と推測しています。
(たまたま、他の酒匂家から
お嫁さんをもらったという例は有ります。)

 私の家の紋は、「並び矢(又は並び矢に丸)」で、
二本の矢が縦に並んでいます。
 鎌倉市長谷の江ノ電長谷駅の近くに
鎌倉権五郎神社(別名御霊神社)の正面には
この家紋があります。
私たちの酒匂家の子供たちは、この権五郎が
先祖、又は一族の一人であると代々教えられて育ちます。
 そして時々お参りに行きます。

 そしてお尋ねの「左三つ巴」。
もう一つは、正確には何と言うのか分かりませんが、
藤の花のようです。
もしかしたら「下がり藤」とか、
「下がり藤の花」というのかも知れません。
私は家紋の事は全くの素人です。

 (イ)蒲生の歴史にご興味がおありなら、
旧蒲生町が発行した「蒲生郷土誌」という書籍が有ります。
古いもの(昭和44年)と
新しいもの(平成3年)の2つの版があります。
その巻末に(又は別冊として)、幕末(藩政時代末)の
蒲生の地図(今でいうと住宅地図)が有ります。
当時の各家々の当主のお名前がほぼ全部分かります。
 両方とも絶版ですので、簡単には入手できません。
鹿児島県内であれば、大方の公立図書館には有ります。

 (ウ)別件です。
 昔、もう20年くらい前になると思いますが、
北海道中央部で何か災害が有り、
(火山の噴火だったでしょうか、記憶有りません)
富良野のあたりの町長さんで「酒匂さん」という方が、
テレビでそのご活躍ぶりを報道されていましたね。
 ご親戚でしょうか。

 (エ)明治維新期、薩摩藩(又は鹿児島県)の
士族で東北地方へ将兵として
派遣された人が大勢います。
私の一族にも東北へ派遣された人が何人かいて、
記録(文書)も若干ですが、残っています。
現在の福島県、岩手県、山形県、秋田県あたりです。
 その一部がそのまま、東北地方に定住し、
その後開拓のため、北海道へ渡った人がいる、
と聞いたことが有ります。

 また、(エ)とは直接関係ありませんが、
中央政府から1870年に開拓使次官、
のちに長官として北海道へ
赴任した黒田清隆のような人もいます。

 (オ)また、口伝といいますか、そういったものに、
依るものですが、遠い先祖で、12世紀末に、
奥州藤原家と対峙するため、
源頼朝から東北へ派遣された人もいます。
(「吾妻鏡」などご参照ください。
なお、吾妻鏡には酒匂家のご先祖が
その文中40か所に登場します。
NHKの大河ドラマにも、私が記憶する限り、
2,3回登場したているようです。)

 札幌の酒匂様、
 鹿児島県・蒲生の「左三つ巴」の酒匂さんで
連絡の取れる方がいますので、
何か私にできることが有ったらお知らせください。
(と言っても大したことはできませんが)

 以上です。
 

家紋について

 投稿者:札幌市の酒匂より  投稿日:2015年 2月14日(土)20時45分47秒
返信・引用
  家紋が左三つ巴の方いらっしゃいますか?じいちゃんが旭川市に居たんですが、先祖は九州にいたまでしかまだ分からないんです。
 

Re: 鹿児島城下・嫡流酒匂家の方々へ

 投稿者:兒島  投稿日:2015年 2月 9日(月)20時54分13秒
返信・引用
  かもひろさんへのお返事です。

かもひろさま
下記書き込みを拝見いたしました。私の母方の祖母は酒匂家の出身で曾祖父の代に蒲生から旧金峰町に移り住んだと聞いています。蒲生から金峰町に移ったのは明治になってからと思います。祖母の従兄弟は日置郡の教育長をしていたようです。
 兒島

> 鹿児島城下・嫡流酒匂家の子孫の方々へ、
>
>  このサイトをご覧の方々の中に、
> 酒匂家の嫡流のご子孫はいらっしゃいませんでしょうか。
>
>  ご先祖様の中に、
> 新左衛門(1500年代前半、川辺、及び旧隼人町日当山の地頭)、
> 源左衛門尉(永禄4年7月廻竹原山、現在の霧島市福山町で戦死)、
> 新左衛門尉景宗(義弘公に仕える)、
> 景政(蒲生からの養子)、
> 利左衛門景明(山口家からの養子)、
> 大蔵兵衛(東郷家からの養子、元禄年間頃)、
> 利兵衛(多分「酒匂家由緒書」の方、宝永年間頃)、
> 源八、
> 太郎左衛門(天明年間頃)、
>  中略、
> 源右衛門、
>  以上のようなお名前の方々をご先祖に
> お持ちの方はいらっしゃいませんでしょうか。
>  私の理解が正しければ、
> 以上の方々は鎌倉以来の酒匂家の嫡流(本流)で
> 今の鹿児島市、つまり城下の侍の筈です。
>
>  最初に書いた新左衛門の5,6代前が、
> 旧川辺郡川辺町の松尾城の城主(城代)であった
> 酒匂紀伊守であると聞いております。
> 紀伊守は西暦1400年前後の人です。
>
>  上記の方々のご子孫の方、
> 是非投稿して戴けませんか。
> 他意は有りません。
> このサイトをお借りして
> 交流したいだけです。
>
>  当方旧姶良郡蒲生町の酒匂家の子孫です。
> 1500年代の半ばころ
> お宅様より分家したと聞いております。
> 源左衛門尉の弟新次郎が蒲生の祖です。
> 家紋は「並び矢に丸」です。
>  太郎左衛門の頃までは
> 鹿児島と蒲生の間にかなりの交流が有り、
> 源右衛門からも手紙が来たようなことを
> 聞いた記憶が有ります。
>
>  大正時代か昭和初期頃までは、
> 花尾神社(旧日置郡郡山町)で
> 例祭が有るときは、蒲生にも招待状が届き、
> 上座に座ったと年寄りから聞いたような記憶が有ります。
> その折、蒲生の人達は
> 多分城下の酒匂家の方々にも
> お会いしているかも知れません。
> 蒲生が呼ばれて、嫡流の市内の方々が
> 招待されない筈は無いと思うからです。
>
>  どうか宜しくお聞き届け下さいますように。
> かもひろ拝。
>
>
 

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